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旧渡辺甚吉邸
郭家住宅
京都大学学生寄宿舎吉田寮

郭家住宅についての建築史学会の見解

 郭家は、文書によれば初代玄関氏が明暦年間に明から帰化したことに始まり、4代延雪氏の時に紀州藩の藩医として招かれ、以来代々藩医を務めた家柄である。本住宅を建てた7代百輔氏は幕末期に江戸赤坂和歌山藩邸内の医学所で西洋医学を学び、江戸蘭学所で教鞭をとった俊英である。廃藩置県後は明治7年に現在の市役所のある和歌山市七番丁に和歌山医学校兼小病院を同志とともに開設し、西洋医学の普及に大きく貢献した。
 その後、明治10年(1877)に和歌山城の南東に当たる今福1丁目の地に擬洋風の洋館を建て(註1)、当時まだ珍しかった西洋医学に基づく診察所を開設した。8代嘉四郎氏までは診察所として使われるが、その後は住宅として使われ、現在に至っている。
 敷地は、道路が入り組んだ近世和歌山城下の町割りが残る地区にあり、洋館は敷地東面に面してコロニアル・スタイルの特徴であるベランダを向ける。この洋館は地域のシンボルとして人々に親しまれ、歴史的景観に大きく寄与している。東側の道路境界には和歌山に多く産出する緑泥片岩の割石積みの石塀が建てられていて、和歌山らしい地域景観をみせている。
 郭家住宅は2階建ての洋館部と西側背面に接して建つ平屋の診察棟(明治10年頃(註2))さらに診察棟から廊下と縁で繋がる数寄屋造りの平屋建ての主屋棟が配されている。この主屋棟は、明治の元勲陸奥宗光の生家である伊達家の屋敷を明治期に移築したと伝わり、国登録申請時の調書では江戸末期の建設と推定されている。これら3棟の他、敷地内には土蔵(江戸末(註3))、庭蔵、離れ(註4)、米蔵、外便所、旧風呂場、石塀などがあり、これらのうち7棟が国登録有形文化財となっている(註5)。これらの建物はそれぞれ建設時期が異なるが、江戸から明治、さらに昭和期にかけての生活様式を反映したものとなっており、敷地全体が稀少な近代住宅建築の遺構といえる。

【洋館棟】
 洋館棟は桁行7.8メートル、梁行き3.9メートル、2階建て、大壁造り、桟瓦葺き寄棟屋根である。正面(東面)は1、2階共にベランダが張り出し、両端2本の角柱と2本の円柱により支えられていて、本洋館の立面を特徴付けている。このような立面の基本構成は竣工より変化していないことが竣工時の古写真より確認できる。ベランダ内の外壁は当初は土壁塗りであったが現在は一部人造石洗い出しによる改修がなされている。他の3面と北面に増築された平屋建てについては、下見板が張られているが竣工時は漆喰壁であったことが当時の写真資料より判明している。1、2階の間にはモールディングで象られた胴蛇腹が廻っている。軒蛇腹は胴蛇腹と異なり直線的な処理に依っており、胴蛇腹と共に昭和9年の室戸台風後の改修により形状が変化したとみられる。
 洋館部1階の中央には両開きの唐戸と腰付ガラス戸の玄関を配している。洋館部は1室の空間となっており、診察所の待合兼薬局として使われていた。玄関を入って正面には廊下を介して畳敷の診察室へのドアがあり、同じく右手北側にはドアを介して平屋建ての小室が接する。1階の床は板張り、4周に洋風幅木を廻し、ドアの額縁は明治初頭に特有の浅いモールディングが施されている。壁は漆喰塗りであるが、額縁のチリの小ささからみて塗り増している可能性が高い。天井は漆喰塗りの天井飾りを有するが、他は細い格縁の木製天井が貼られているが、当初の漆喰塗り天井の傷みを補修するためのものと考えられる。
 2階へは木製階段を用いる。素朴な手摺子の洋風意匠をもち、仕上げはワニス塗りの生地仕上げとしている。他の額縁や幅木の青色のペンキ塗りとの違和感があり、内部の木部については当初からペンキ塗りであったのかどうかは今後の調査が必要である。
 2階も間仕切りのない1室空間である。内装については1階と同じ仕様である。両開きのガラス窓には内部にも持ち送りの窓台が付され、外部には鎧戸が設けられている。擬洋風というには当たらないような本格的な意匠となっていることは注目される。ベランダに面した開口部は当初の形式をよく留めており、掃き出しのドアの腰板には当初のものと考えられる油性ペンキによる木目塗りの痕跡が残る。明治初頭の洋風扉として貴重な事例といえる。
 2階ベランダは金属板張りの床に黄大津風の土塗り壁としており、ドアのペンキ塗りの下層に黄色のペンキが用いられていることからも、当初から全体として黄色系の色彩が用いられていた可能性が指摘される。
 なお、ベランダの手摺子は現在は鉄棒になっているが、当初は階段と同様の素朴な木製の手摺子であったことが、竣工時の古写真から確認される。
 本洋館は残存する明治初期の擬洋風住宅として貴重であり、しかも、この種の建物としては保存状態が比較的良好である。さらに、古写真や古文書等歴史資料も残りこの建築の価値をさらに高めている。

【診察棟・主屋棟】
 診察棟は洋館部の背後に接して建つ。桁行き8.7メートル、梁行き7.8メートルで、木造平屋建て、桟瓦葺きである。六畳と四畳半の和室が洋館と廊下を介して配され、診察の場として用いられた。六畳間の北側には床付の二畳間があるが、特段、診察のための機材等を置く設えはなく、和室自体も普通の居宅用の簡潔な造りとなっている。伝統的な床座式の診察の方式がとられていたとはいえ、待合所として使われていた洋館部との差は大きい。
 診察棟は診療所開設時には当然建っていたと考えられるが、洋風建築と和風の診察棟の取り合いはきわめて窮屈な接し方をしており、明治10年に洋館が建てられる前に既に建っていた可能性も指摘される。
 本診察棟は、待合室兼薬局としての機能を持つ洋館と合わせて、明治初期の医院建築として貴重である。
 主屋棟は診察室と縁と廊下を介して建つ。桁行き11.2メートル、梁行6.4メートル、平屋建て切妻屋根、桟瓦葺きである。先にも記したように陸奥宗光の生家である伊達家の屋敷の一部を移築したものと伝わる。建設時期は不詳である。主屋棟は八畳間と九畳の間と茶室、および長四畳からなる。特に九畳の間は床の間、違棚、垂壁が複雑に組み合わされた3つの趣向を有し、天井は網代や紙張りとするなど、変化に富んだ設えとしている。
 主屋棟は極めて自在な造りと稀少な素材を用いた煎茶席の趣が強い数寄屋造りの好例といえ、幕末から明治前期にかけて顕著であった煎茶愛好の歴史を今に伝えるものであり、洋館に劣らず重要である。また、我が国の外交史上顕著な功績をあげた陸奥宗光にかかわる遺構の可能性が大きいことも注目に値する。

 以上のように、郭家住宅は洋館、診察室棟、主屋棟など敷地全体として建築史学的価値の高いものである。しかし郭家の価値はそれにとどまらず、和歌山の近代西洋医学普及に大きく貢献した郭百輔氏による診察所であること、煎茶文化の歴史を伝える質の高い建造物であること、加えて、日本近代史上著名な人物にかかわるものであることなど、文化史、地域史上重要な建造物であり、さらにこの地域の歴史的景観に大きく寄与していることなどから、まちづくり上の価値も高い建物であると評価される。


配置図


洋館2階平面図


洋館1階平面図


診療棟平面図


主屋棟平面図(数寄屋造主屋)


離れ平面図

(註1)国登録有形文化財への申請では明治6年となっているが、近年の研究から建設時期については診療所を開設した明治10年に建設されたとする方が妥当であると考えられている。
(註2) 登録申請では明治6年頃となっている。診察棟の建設時期については確定していないが、近年の研究では診療を始めた明治10年頃には建設されていたと考えられている。
(註3) 国登録文化財への申請では江戸時代となっているが、県文化財センターでは明治中期以降の新築、または移築という見解をとっている。
(註4) 国登録有形文化財の申請では江戸時代となっているが、和歌山県文化財センターの調査書では昭和28年以前と記されている。戦前期の近代和風住宅であると考えられる。
(註5) 国登録文化財に選定されている建物は下記の通り。なお、建設時期については登録時の通り再掲するが、近年の研究により修正されているので、要望書本文では修正した研究に基づく建設年代をとっている。登録時期は平成9年9月3日
 郭家住宅(旧郭百甫医院)洋館    明治6年
 郭家住宅(旧郭百甫医院)診察棟   明治6頃 〃
 郭家住宅(旧郭百甫医院)主屋   江戸末期 〃
 郭家住宅(旧郭百甫医院)離れ 〃
 郭家住宅(旧郭百甫医院)土蔵 〃
 郭家住宅(旧郭百甫医院)外便所 大正14頃 〃
 郭家住宅(旧郭百甫医院)石塀 大正14頃 〃